いつも心に音楽と、山と

さすらいの教師takebowの趣味の部屋

金曜日, 1月 12, 0019

【名曲名盤】ウルフルズ『バンザイ』


それまで業界人・マニアに受けていたウルフルズというバンドを聞いたのも、このアルバムが最初であった。ベタベタの大阪テイスト。こてこての引用。ロックファンなら「暴動チャイル」のネイミングには必ずニヤリとさせられるはず。「歯竹強」ことトータス松本の分かりやす~い暑苦しさが、ステレオタイプの「大阪」にピッタリだった。遊び心などというヤワなものではなく、「なにが何でもうけてやる」という曲作り。ファンク系からビーチボーイズばりのサーフィンサウンド、しっかりした音作りがしつこいまでの歌詞をガッチリと離さない。流石、伊藤銀次プロデュースといえるだろう。しかし、「バンザイ~好きでよかった~」や「ガッツだぜ!!」の爆裂パワーに隠された、「泣きたくないのに」というバラードこそ彼らウルフルズの神髄であり、大阪系アーティストの正統な継承者としての証明でもある。
今回10年ぶりにアルバム全体を通して聞いた。関西から東京に逃げ帰った私に今でも「良い処やで」と呼びかけてくる。「泣きたくないのに涙が僕にせめてくる」


ウルフルズ『バンザイ』 1996/01/24 東芝EMI

火曜日, 1月 09, 0019

【名曲名盤】ジャクリーヌ・デュ・プレ『ドボルザーク:チェロ協奏曲』


ジャクリーヌ・デュ・プレ讃歌

早く逝ってしまった天才に思いを馳せる時、何と自分の無為な人生かと嘆きたくなる。吉田松陰29歳、フィンセント・ファン・ゴッホ37歳、そしてジャクリーヌ・デュ・プレ42 歳。小生のような凡人の生きている分を、彼らにあげられたらどれだけ多くのことを成し遂げられただろうと思う。ジャクリーヌの場合、16歳でデビューした が活動時期は10年ほどで、残りは病魔と闘いながらの後進育成にあてられたので、後半の16年ほどは苦悩・苦悩の連続だったことだろう。

私 はチェロという楽器が好きだ。低い音もしっかりと出せるところに惹かれるのかも知れない。そしてカザルスなど尊敬するチェリストが多いのも理由になって いるが、その中で何と言ってもナンバーワンなのが、ジャクリーヌ・デュ・プレその人である。彼女の代表曲とされるエルガーのコンチェルトよりも、今日の一 枚『ドボルザーク:チェロ協奏曲』の方が私のお奨めだ。前者は彼女の悲壮な運命を重ね合わせて聴かれる方が多いし、デビュー16歳という年齢とは思えない 奥深い演奏で魅力タップリではある。しかし、そういった諸々がイヤなのだ。明るくステキな笑顔を見せているそんなジャクリーヌに会いたい。陰影がありつつ も彼女の陽性が弾けて欲しい。そんなファンも多いと思う。ジャクリーヌは女性とは思えないほどの音を出していたという。確かにこのCDのバレンボイム&オケでは太刀打ち出来ていない。彼女の音に直面・対座したい。奥深さ・奥行き、そして明るさ。いつまでも輝いている音に。

今も心に残る一輪のバラ、ジャクリーヌ・デュ・プレ。CDなどでその音に触れられるのは、我々に与えられたたった一つの幸運と言えるのだろう。


Jacqueline du Pre 『Dvorak, Anotnin: Cello Concerto in B Minor, Op. 104』 1970.  EMI

月曜日, 1月 08, 0019

【名曲名盤】デューク・ジョーダン『フライト・トゥ・デンマーク』


何とチャーリー・パーカーの時代からのキャリアの持ち主。ばりばりニューヨーク生まれの黒人ピアノ弾きなのに、後半生は北欧で生活されて、このアルバムもタイトル通りデンマークで録音されて、Steeple Chaseレーベルから発売されている。

ジャ ケットが雪の中で佇むデューク・ジョーダンなので、冬場に好んで聴く人が多いようだ。確かに薪ストーブの前で、スコッチ片手に聴くと良い雰囲気、最高 だろうなぁ(もちろんやったこと無いけど)。名曲No Problem(危険な関係のブルース)も良いのだ(この名曲、デューク・ジョーダン作曲なのだ)が、Everything Happens To Meの「いぶし銀」のような光を放つ名演に惚れております。トリオの支えがあってのリーダー作だと思うのですが、特にドラムのエド・シグペンの「出しゃば らない」感が心地よいです。デューク・ジョーダンもリズム隊にまかせて、自由にテンポを変えています。Glad I Met Patの高音部を弾くリリシズムは最高。On Green Dolphin Streetもマイルスの演奏とは異なるが、刻んでくる感じのブロック・コードがとても「鯔背」な感じがするんです。

小生がライブを見た数少ないアーティストの一人でもある、名ピアノ弾きで名作曲家のデューク・ジョーダンは2006.8.8、デンマークで死去された。享年84歳。         合掌


Duke Jordan  『Flight To Denmark』  Steeple Chase  1973

日曜日, 1月 07, 0019

【名曲名盤】スーパーギタートリオ『フライデイ・ナイト・イン・サンフランシスコ』


三人のスーパー・ギターリストがコラボったアルバム。パコ・デ・ルシアアル・ディ・メオラジョン・マクラフリンの三人で、後二者は小生の守備範囲JAZZ(というかフュージョン)なので馴染みが深かった。しかし、パコがディ・メオラのソロアルバム『Elegant Gypsy』 でアコースティックを早弾きしているソリストとは気づかなかった。兎に角、このパコが凄い!マクラフリンですら一杯いっぱいじゃないか、と思えるテクニッ クの嵐。小指動きまくり。フラメンコギターの奥の深さを思い知らされた。構成は2人ずつ組んで3曲を、残り2曲をトリオで、となっている。1曲1曲が長く 8分かそれ以上なので、余程の音楽性・演奏技術・引きつける魅力がないとダレてしまうのだが、彼らにそんな心配は御無用だ。6弦×3本のギター=18本の 弦が奏でているとは思えない音楽世界が広がる。電子楽器の人工音の及ぶ範囲では無く、まさに神の領域に達している。トリオ作品なのでお奨めは、ギターバト ルとも言える4曲目の「Fantasia Suite(幻想組曲)」なのだが、個人的にはオープニングのパコ&ディ・メオラの「Mediterranean Sundance(地中海の舞踏)」の壮絶な演奏を、「これを聴かずしてギター音楽を語る勿かれ」という名演としてお奨めする。

その後、トリオが十数年ぶりにアルバムを発表し、日本でもコンサートを開いた。小生も幸い観ることができたのだが、やはりこのアルバムの衝撃波には叶わないのであった。


Al Di-Meola,John McLaughlin,Paco De Lucia『Friday Night In San Francisco』 1980 Columbia

水曜日, 1月 03, 0019

【名曲名盤】四人囃子『一触即発』


ピンクフロイドの「エコーズ」を完璧にコピーする日本人バンドがある、という噂をその昔聞いた。バンド名は四人囃子。彼らのファーストアルバム『一触即発』 はとても高い評価を受けていた。しかし当時、少年であった私には余分なレコードを購入する経済的な余力もなく、また曲の長さからラジオ等で全てかかること もなく、未聴のまま憧れだけが増大していった。まさにプラトンのエロース状態。このアルバムは私にとってイデア界に鎮座ましましたのである。社会に出て自 由になるお金ができた時にはこの作品もCDになっており、私がやっと聴くことができたのはこのCD盤である。おまけにCDシングル「空飛ぶ円盤に弟が乗っ たよ」がついていた。
何よりも吃驚したのはアルバムを通しても35分に満たない、その量的な部分に愕然とした。おいおい第九の半分かよ、と思いな がら、かけるとそこには日本語 によるプログレッシブ・ロックが詰まっていた。森園勝敏氏のボーカルが眠たさを誘い、「はっぴいえんど」を思わせる感じがあって、初めは違和感があった。 しかし聴けば聴くほど、所々ELPやキングクリムゾンを思わせる曲調もあり、とても馴染めるモノになった。プログレはややもすると、環境音楽やイージーリスニングのような(現に『狂気』はそのためにアメリカで売れた)扱いを受けるが、彼らの音楽性は幅・奥行きともに広くまさに世界レベルだった。「おまつり」「一触即発」は草創期日本語ロックの到達点を示している。まさに日本ロックのエイドスであったのだ。

彼らを有名にしたピンクフロイドの呪縛は、彼ら自身の活動を制限し続け、その後の自由を奪ったと思えてならない。ここに日本のロックの宿命を感じる。


四人囃子『一触即発』 1974 TAm

月曜日, 1月 01, 0019

【名曲名盤】アルゲリッチ『チャイコフスキー:ピアノ協奏曲』


以 前から馴れ親しんだ作曲家にチャイコフスキーがいる。もっとも彼のバレー曲を聞く程度だったので、大したモノではない。やはり曲調からイメージしやすい ので、ロック野郎の私にも聞きやすかったのだと思う。バレー自体は見たこと無いのに、曲だけで理解できるのは大したモノである。

クラシックが好きになってから知ったピアニストがマルタ・アルゲリッチだ。 彼女は実に繊細な表現をする反面、ほぼ前面に出ているのは激しい、情熱的な、熱い演奏である。きっと彼女は男性なんだと思う。その剛毅な面は、お子さんた ち一人一人の父親が全て違うという点にも現れているかも知れない。そんな剛胆なアルゲリッチが日本の、しかも大分の、別府で毎年のように音楽祭を 開き、コンサートを行っている。今、私が本気で観たいアーティストNo.1の彼女。未だにお目にかかれてはいないが、CDのおかげでお耳に?はかかれてい る。ショパンコンクールの衝撃のデビューもいいが、このチャイコは最高だ。オケが負けてしまうのでは、と思えるほど力強い演奏である。みなさんは冒頭から 巨大なT.Rexと戦うヒーローのようなアルゲリッチに出会うことでしょう。

ソリストというのは豪快な表現力、個性が必要なのだろう、それが分かる一枚である。


Martha Argerich, Kiril Kondrashin, Bavarian Radio Symphony Orchestra 『Tchaikovsky Piano Concerto No.1』 1980 Philips

【名曲名盤】エラ・フィッツジェラルド「Mack The Knife」


エラ。ジャズボーカリストの最高峰、20世紀の文化遺産、the First Lady of Jazz。ありとあらゆる賛辞が彼女、エラ・フィッツジェラルドには与えられているが、それらはこのアルバムの、この一曲にこそ相応しいと私は感じる。

最 盛期のエラがまだ東西に分断されているベルリンで見せたパフォーマンス。ドイツならではの御当地ソングとしてクルト・ワイルの歌を取り上げたのだろう が、彼女ならではの自由奔放さによってその世界は広がっていく。スキャットあり、サッチモあり、音の高低だけでない広がりあり。まさに宇宙的に広がってい く様は、ジャズのライブならではであろう。ライブのもつ楽しさ・ノリ・アドリブ・感動がこれほど詰まっているアルバムも珍しい。私の持っているCDは旧盤なので曲数が少ないが、今出ているのは『完全版(+4)』と銘打ってコンサートの全体像がつかめる感じなのだろう。ただ、私にとってこの盤はこの「Mack The Knife」の名演のみで充分、多くを望んではバチが当たると言えるかも知れない。

エラ・フィッツジェラルドはジャズそのもの。ボーカルこそ最高の楽器と実証してくれる歌姫である。


Ella Jane Fitzgerald 『Ella in Berlin』 VERVE 1960

土曜日, 12月 30, 0018

【名曲名盤】T・チャップマン「Talkin’ About A Revolution」


その歌い手はギター一つで何万もの観衆を相手に歌い出した。

♪Don't you know
♪They're talkin' about a revolution
♪It sounds like a whisper

観 衆は歌に引き込まれ、波を打ったようになる。ネルソン・マンデラの70歳の誕生日を祝うイギリスでの記念コンサート(Nelson Mandelay's 70th Birthday Tribute Concert)の1シーン。低い、低い歌声。歌い終わると、頭を下げて颯爽とステージそでに消えていく。これが彼女、トレイシー・チャップマンとの出会 いであった。黒人の女ディランという感じの勇姿。格好良かった。

この曲を収録したデビューアルバムは グラミー賞を受賞する大ヒットアルバムとなり、中でも2曲目の「ファスト・カー」はシングルとしても大ヒットしたのであった。だが、私にとってのトレイ シー・チャップマンは「トーキン・バウト・ア・レヴォリューション」を切々と歌い上げる吟遊詩人であり、アメリカで「革命の到来」を予感させるという実に 矛盾した魅力をもった歌い手として、今でもお気に入りの一人である。その後、原点回帰のように黒人音楽・アフリカの民族音楽のリズムを取り入れていった が、残念ながらこのデビューアルバム程のインパクトはなかった。このアルバムのもつパワーはまさに時代と、才能と、に裏打ちされたモノだからこそ輝いて見 えたのだろう。

本当に囁かれていたのだ、「知らないのか、奴ら、革命について話してるんだぜ」って。


TRACY CHAPMAN『TRACY CHAPMAN』 1988.04  Elektra

金曜日, 12月 29, 0018

【名曲名盤】槇原敬之『LIFE IN DOWNTOWN』


才能のあることは分かっていました。でも、同性愛やら、クスリやら、彼についてはとっても理解できないことが多かったのも事実です。そうそう、事件になったこともありましたね。常にトップを走ることを強いられ、転落していったアーティスト。そんなのイメージに彼、槇原敬之はピッタリでした。

と ころが、スマップに「世界に一つだけの花」を書いた頃から、何かそれまでとは違って来たという感じがありました。なぜだろう。どうやって吹っ切ったのか なぁ、と気にはなっていたのですが、私はファンでは無かったので触れずに来ました。そんな時、NHKの「音楽の遺伝子」と言う番組で、美輪さんの「ヨイト マケの唄」を歌う槇原敬之を見ました。唄は、はっきり言って、ピンと来なかったです。でも、あの唄のもつ意味をまじめに受け止め、自分なりに表現しようと いうアーティストとしての根性とか、魂とかみたいなモノがひしひしと伝わりました。自分の背負う原罪のようなものを、彼が乗り越えられた原因は、これか。

そして、最新アルバムを 聴きました。詰まってました、普通の人が、普通に生きて、普通に喜びを感じられる曲・曲・曲・・・・・・。つらいこと、悲しいこと、へこんだこと、怒りが こみ上げること、苦しいこと。日々、生きていく中で必ず発生する嫌なことの集団にどう立ち向かうのだろうか。また、向かい合うべきなのか。まっきーに教え られたような気がします。「下町」の何気ない人情や飾り気のない人間関係に込められた、彼の優しさ溢れたメッセージがじ~んわりと染みてきます。

稀代のメロディメーカー槇原敬之は、ココロノコンパスを持って、より高みに向かっている。彼は果たして「約束の地」を見ることが出来るのであろうか。

槇原敬之『LIFE IN DOWNTOWN[Limited Edition』 2006 東芝EMI

土曜日, 10月 21, 0018

山行回想10-針ノ木岳-

「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)

真 夏でも雪があるという風景は登山をやらない人には理解しにくいかも知れない。しかも全て溶けることなく、秋には再び新雪が上から積もって氷として堆積して いく雪渓はなかなか見られる場所が少ない。日本には三大雪渓とよぶ比較的(あくまでも日本レベルで、氷河とは呼ばない)大きなモノが3つある。白馬・剣 沢・針ノ木の三箇所で、北アルプスでも北部に位置し、信州側というより東向きの谷筋にできている。所々、クレバスと呼ばれる溝や表面が凍った処があるので 歩行、特に下りは要注意である。

大好きな山道に柏原新道があり、そこから針ノ木岳に 向かった時の話を記したい。その頃は仕事の関係で8月上旬に山行していたが、いつも全行程安定した天気に恵まれることは無かった。一日目は扇沢に車を停 め、柏原新道を種池山荘に向かった。いつもだったら、ここで一泊なのだが、先を急ぎ新越乗越小屋に向かう。静かな登山道ですれ違う人もまばら。みんな種池 から爺・鹿島槍に向かってしまうのだ。途中、ポツポツと雨に見舞われながらも、何とか天気がもって小屋までたどり着いた。途中、猿の軍団がハイ松の実を食 い散らかしながら、山の斜面を下っていくのに遭遇した。下に黒四ダムと黒部湖があるはずだが展望がきかず、当然、立山も見えなかった。山小屋で一瞬だけ雲の切れ間から立山が見えた。翌日はしっかり朝から雨。しかし、稜線歩きなので 頑張ろうと雨具に身を包み、立山黒部アルペンルートの真上を歩く。冷い雨の中を歩く。何も見えないのにひたすら歩く。針ノ木岳山頂の写真も雲の中で私と標 識以外は何も見えない。そこから峠に向かって下る。小屋についてしばらくすると、今までの天候が嘘のように雲が切れてきて、日がさして来るではないか。これは チャンスとばりか、ビール片手にコマクサで有名な蓮華岳に向かう。初めは感動してコマクサの群落を撮っていたが、そのうちあまりの多さに感動が薄れてし まった。人間とはいい加減な動物だ。山のガレた斜面に健気に咲くコマクサ。少ないから、珍しいから、ありがたいのだろう。見渡す限りコマクサのお花畑では 写真もそこそこになる。蓮華の頂上で船窪岳方面を眺めながら麦酒を飲む。最高、至福の時だ。夕方、小屋の外で景色を眺めていると、ヘリが飛んできて遭難者 をスバリ岳の頂上付近からホバーリングでつり上げて救助していった。天候とは別の山の怖さを痛感した。慎重に下ろうと誓う。翌日は針ノ木雪渓を下る。軽ア イゼンを持っていたので、快適。天気も良かったので快調に進む。冒頭の詩を書いた百瀬慎太郎ゆかりの大沢小屋を経て、扇沢に向かう。最後はお決まりの大町 温泉郷の「薬師の湯」で汗を流す。


登りはキツく辛いことが多いけれど、実はあまり危険ではない。降りにこそ危険が潜んでいる。これもまた人生と同じか。                    (写真は針ノ木大雪渓)

土曜日, 8月 19, 0018

山行回想9-常念岳-


「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


松本平から梓川に沿って広がる盆地は北アルプスと平行してフォッサマグナと呼ばれる地溝帯を形成している。その中にあって一際、目立つ形でキリリとそびえ立つのが常念岳である。名前の由来は春先に残る雪型が常念坊という僧侶の形に似ていることから来ている。隣の蝶ヶ岳が二重稜線のノッペリとした捕らえどころのない、景観であるのに対して常念のそれは「ここにいるぞぉ~」と叫んでいるかのような自己主張が感じられる。

初 めて登ったのは、確か10月の連休だったと思う。友人の結婚式に参列してから大阪発の夜行寝台で松本に向かった。当時は何と月イチ登山をめざし、今では 考えられないが、かなりのハイペースで登っていた。だから、こんな無茶をしたのだろう。大糸線の穂高の駅でタクシーを拾うと、山小屋に 新聞を届けてくれとのこと。そうか、こうして人伝で届けられるんだなぁと感心した。前日に雪が降ったらしく、登り始めには山頂部が白っぽく見えたが、天気 が良くて歩いている最中に雪は完全に溶けてしまった。2662mの避難小屋あとまでは快調に来たが、前日の酒や疲れが出たのかバテ始めたので、そこからは 常念乗越へのトラバースする道を使った。現在、この道は使えないので要注意である。2年前に再訪した時は頂上を経由しないと行けないようになっていた。小 屋で頼まれていた新聞を渡すと凄く喜ばれ、コーヒーをごちそうになった。そんな交々のことを安曇野を走りながら常念岳が見えるたびに思い出すのである。

「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」という啄木の歌を思い出す。私にとって故郷でもないのに、常念岳はありがたい存在である。 (写真は槍の稜線から見た雲海の常念岳)

木曜日, 8月 17, 0018

山行回想8-不帰ノ嶮-

「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


北 アルプスには、キレットと呼ばれる場所が3箇所ある。一番有名なのが槍~穂高間にある大キレットで、次に鹿島槍~五竜の八峰キレット、そして唐松岳~天 狗ノ頭の間にあるのが不帰ノ嶮である。キレットは「切戸」とも書き、ナイフエッジを思わさせる急峻な岩の稜線を指す。どこも「鳥も通わぬ」とか「人を寄せ 付けない」という形容詞とともに語られている難所である。

2005年、八方尾根から登り、唐松山荘に一泊。翌日、快晴の中、懸案の不帰ノ嶮を めざした。3度目の正直。今まで2度に渡って越えるのを断念してきた場所だ。天候が不順であったり、体力的に保たずに諦めてきた。だが、今回は難所に関し ては恵まれた山行となった。天気の安定は、剱岳を代表とする立山などの山々を見ながらの快適な登攀を可能にしてくれた。かなり早いペースで核心部分のⅡ峰 ~Ⅰ峰をクリアできた。子供の頃から危険な処を登るのが好きだったためか、難所になると余計にやる気が出てくる。デジカメの写真を見ると、岩ギキョウなど の花を愛でる余裕もあったのだから、いかに快適な山行だったか、ご理解頂けると思う。「天狗の大下り」を逆コースから大登りして天狗岳山荘に着いた。

その後が長かった。白馬鑓温泉ま でがモチベーションが下がったためか、何度休んでもペースが掴めないので大出原で昼寝した。他の登山者が横を通るのに無様にも大の字になっていた。山用語 で「トカゲ」という状態。おかげでパワーが戻り、白馬鑓で快適な温泉を満喫した。が、翌日は朝から最悪の雷雨となり、命からがら猿倉まで下ったのだった。 翌日、下界のニュースで大雪渓の落石で人が亡くなったことを知った。


困難がある。だからこそ登るとしたら、登山とは人生そのものなのか。      (写真は不帰ノ嶮Ⅱ峰南峰)

土曜日, 8月 12, 0018

山行回想7-笠ヶ岳-

「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


笠と言えば、虚無僧の被る編笠などを思い浮かべるが、昔の人は女性の被る市女(いちめ)笠をイメージしたようだ。今回取り上げる笠ヶ岳は実にその形を忠実に現出している。遠く薬師岳からも、そして雲ノ平からも、もちろん槍・穂高からも同じように絵に描いたような笠の形が見て取れる。

そ の山に登ったのは2度目の大縦走で、そのトリとなるピークが笠ヶ岳であった。ルートは、また折立→太郎平→薬師岳→雲ノ平→高天原→雲ノ平→三俣蓮華→ 黒部五郎(カールのみ)→双六→笠ヶ岳→新穂高温泉というモノ。天候に恵まれ、順調に山旅が進み、最後のピークとして笠ヶ岳をめざした。裏銀座と呼ばれる 双六までは大勢いた登山客も秩父平を越える頃にはほとんど見かけなくなり、以前、登山道に熊が出没したというニュースを思い出させるに充分な静けさの縦走 路であった。小屋に荷物を置いて、早速山頂に行ってみると、幾多のケルンがあり、綺麗に水平の石が積み上げられていた。休みながら槍~穂高を眺めている と、一転俄に曇ってきて、立ち上がるとそこには人影が後光を放ちながら現れたのであった。

ブロッケン現象はそれまでも何度か体験していたのであるが、やはり信仰の山で経験すると厳かな気持ちになるモノである。まさに光背を浴びて阿弥陀仏が降臨したかのような錯角を受けたのもむべなるかな、である。山頂でまったりとした時を過ごしたのは言うまでもない。

それと、この山にもし向かわれるのなら、絶対に笠が岳山荘に 泊まることをお薦めする。小生の経験では北アルプス随一のもてなしの山の宿だからである。朝から朴葉みそを食し、夕食にはデザートといってスイカをごちそ うになり、空いているからいって一人一部屋のような恵まれた睡眠環境を楽しませて頂いた。商売抜き、そんな感じで幸せにさせてもらった。再訪したい山小屋 ナンバー1が笠が岳山荘である。

一期一会。笠ヶ岳には信仰の山だからこその、人のぬくもりがある。                 (写真は三俣蓮華山頂から見た笠ヶ岳)

金曜日, 8月 11, 0018

山行回想6-槍ヶ岳-


「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


そ の山に初めてお目にかかったのはいつだったか、定かではない。たぶんイヤと言うほど写真を見ているので、どれが実体験か分からなくなっているのであろ う。初めて八ヶ岳に登った時に遠く北アルプスを眺め、弟のカメラの望遠レンズで見たのが肉眼で見た初めてだったような気がする。

初めてに登ったのはまだ弟と共に山行していた時期で、確か小屋がけで登ろうということになり、→ 大天井岳→(喜作新道)→西岳→槍ヶ岳→槍沢→上高地というルート、表銀座とよばれる北アルプスの王道である。時期は8月の終わりで、学校が始業する直前 だった。下界は残暑だとか熱帯夜だとか言っている季節だったが、山上はもう秋の佇まい。草紅葉などが始まっていた。時期的に大糸線の穂高駅でバスに乗ろう としたが、もう運行されていない頃だった。それほど夏山シーズンを外れていたということか。

合戦尾根の登山口は有名な中房温泉で あるが、我々が行ったら、オヤジが 「登山客以外は泊めるな、観光客には帰ってもらえ」と叫んでいた。このご時世に、登山客優先とはビックリした(現在は違うかも)。出発が遅かったが、短い 行程なので何とか着いて当時としては珍しかった生ビールを飲んだり、燕岳に散策に行ったりして過ごした。翌日、前半は快調に喜作新道を進んだ。この道の凄 いところは槍ヶ岳がスケールごと大きく見えてくる処だろう。元来、あれだけ目立つ山である。誰が見ても分かるあのピラミッド型が歩くたびに近づいて来るの だから、山をやるモノには堪らない。水俣乗越を越えた辺りから二人のペースがダウンし始めて、なかなか距離を稼げずに肩の小屋ま で着かず、結局、ヒュッテ大槍に泊まることとなった。情けない話だが、無理は出来ない。一晩休むと体力も回復し快晴の中、槍の穂先に向かう。穂先の最後の 部分は登りルートと下りルートと分かれていて、渋滞を避けようとしているのだが、普通はいつも渋滞している。頂上は思ったより広く、祠が祀られ元々信仰の 山から出発したこと注2)を思い起こさせる。360°の展望。北アルプスの中心からコンパスを広げて好きな図形が書けそうである。空気が一瞬、止まったよ うに感じた。ずいぶん穂先でぼんやりしていたような気がする。あまり長居は出来ないはずなので、時間的には何分、何十分の範囲だろうに。

帰 路、例によってまたバテて横尾か徳沢で一泊しているはずだが、どうも思い出せない。この頃は交通機関をバス・電車に頼っていたので、自由がきかず、温泉 にも入れずに汚いまま新宿に向かったのだけは覚えている。これ以後、全部で3回ほど登る機会に恵まれたが、穂高と違いルートは全て異なる。槍が北アルプス のcrossroadなので、さもありなん。出来ることなら今度は飛騨側から登ってみたいモノである。

よく遠くの頂を見て「あれは何てい う山だ」と考える。岳人共通のあこがれの中心が槍ヶ岳だ。ところが、その中心=槍からはさらに中心(槍)が見える範囲の 山をすべて登ってみたい、と感じたのだった。中心にいるということはそういうことのようだ。                                                       (写真は大喰岳辺りからみた槍ヶ岳)

月曜日, 7月 24, 0018

山行回想5-穂高・涸沢カール-


「山を想えば 人恋し。 
人を想えば 山恋し。」(百瀬慎太郎)


何 度も登る光栄によくしている山がある。まして頂に至ることが出来るなんて、本当に幸福なことだ。頂上からの眺めは山人の最高の愉しみである(禁煙し て久しい今でも一服したくなるほどだ)。奥穂の頂上から見下ろした上高地や大正池、帝国ホテルの赤い屋根。何度でも行きたくなる場所だ。

すでに穂高に初めて登った時のことを記したが、今回は2人で登った話を記す。友人の息子がまだ中学生(現在は社会人)の時、上高地→横尾→涸沢→ 奥穂を幕営で登ろうとした。私にとっては久しぶりに同行者を得た形の山行であった。彼は中学の山岳部に入り、ロッククライミングの練習までしている程で あったから、天候さえ良ければ大したことは無いだろうと私はタカをくくっていた。しかし、成長過程の彼に対する気配りが足らず、少しずつバテているのに気 がつか無かった。彼が涸沢のテントで死んだように寝ているという状況に対する正しい認識が私には不足していた。それでも3日目、快晴の中、奥穂に向けて空 身で出発し、白出(しらだし)のコルに建つ穂高岳山荘まで快調に到達した。が、彼の体力はそこまでしか残っておらず、あと少しで頂上に到達できるという地 点にいるのに、もうこれ以上は登れないという。休みを取っても、もう登れないと言うので、私は下山することにした。隣で休んでいたおばさんがビックリし て、ここまで来て何で?と言うので、私は「また来れば良いことですから」と答え、2人で涸沢カールへと来た道を降りて行った。全て引率して行った私の責任だった。単独行がほとんどの私は、同行者の状況や体調を正しく理解することが出来なかったのである。

登れないことで学ぶこともある。登らなかったから良かったこともある。それを知った山行であった。
                                                    (写真は蝶ヶ岳からみた穂高連峰:5月)

日曜日, 7月 23, 0018

山行回想4-剣岳-


「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


初めて白馬から見た剣岳の 偉容は忘れられない。もっともその時は名前が分からず、「あれ何だ?」と言っていた位だから、小生のレベルも大したことない。ただそんなド素人でも興味を 持ってしまうほど、特異な個性の持ち主だ。このように強烈な個性を持った山には槍、穂高、鹿島槍、南では甲斐駒ヶ岳などがあげられるが、中でも日本海にほ ど近い場所なのもあって、剣岳の自己主張はバツグンである。剣の先のようで、諸刃の名刀のようで、江戸期の「立山曼荼羅」では地獄の針の山として描かれて いる。

小生にとって、剣は挑戦し続けている山である。一番初めは、小屋がけの単独行で台風が接近している中、室堂の バスターミナルを出発。雨風ともに強くなり雷鳥沢を登っている際には、何度か風を避ける必要が生じるほどであった。別山乗越の剣御前小屋にやっとの思いで 到着。しかし、翌日は台風来襲のため丸一日停滞。小屋にいる客は私くらいになってしまった。もちろん目の前にあるはずの剣はまったく見えない。ところが、 翌朝は台風一過の快晴で、あれほど遠かった剣を目の当たりにしながら、実に快適に登ることが出来た。難所と して知られる剣岳だが、落ち着いて一呼吸おいて当たれば一般登山道なので登れる。兎に角、焦らないことだ。それでも、下山路のカニのヨコバイにはまいっ た。背の低い小生では、足を確保する場所が見あたらず、鎖をもって身を投げ出す形にならないと下れないのであった。天候が落ち着いて安定していたからこ そ、難なくこなせたのだろう。好天を山の神に感謝した。そして、下山途中で室堂平の温泉に浸かったのはいうまでもない。

その後、無謀にも単独行&幕営で2回挑戦したが、2回とも暴風雨に遭い山頂を踏むことなく撤退している。剣沢の幕営地で撤収する際に風で飛ばないようテントを押さえるため、石を置いたらテントに穴が空いていた。結局、一度しか山の頂には達していないのである。

こんな思いをしても、もう一度、いや何度でも挑戦したい山。それが剣岳である。            (写真は剣沢野営場から剣岳)

土曜日, 7月 22, 0018

山行回想3-下ノ廊下-


「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


1泊2日で北アルプスの秘境中の秘境を旅したことがある。秋だけしか行けない処が、ここの難点ではあるが・・・

黒部ダムの横から下まで降り、橋を渡ると黒四ダムの大きさが実感できる。観光放水しているので、ナイアガラの滝下に来たかのように感じるだろう。そこからいよいよ現代の秘境下ノ廊下へ と入っていく訳である。内蔵助谷との出合を過ぎると、黒部らしく谷が狭くなってくる。所々、いかにも落石後ですよ、という雰囲気の斜面を歩く。デブリ、雪 のブロックが現れ、緊迫の度合いも高まる。十字峡の吊り橋を渡り、いよいよ岸壁にコの字型に掘られた旧日電歩道を歩くと、三国志の蜀の桟道に迷い込んだか のような錯角を受ける。ザックが大きめなので、壁にぶつからないように注意しながら進む。仙人ダムを越え、峠を乗越すと今日の宿・阿曽原温泉だ。幕営の準備をし、急いで、むき出しコンクリートの露天風呂にビール片手に入る。紅葉の季節は五段染と呼ばれる色を楽しめるそうだ。

翌日は欅平までの水平道を緊張しながら歩く。一箇所、ビックリしたのは志合谷で 沢の下をトンネルで抜けるのだが、鋭角的にカーブしているので全くの闇になる。よって、ライトが必要だ。その上、中は水びだしなので靴の中にも入り込む。 向こう側に出たら新しい靴下に替えられるようにしておこう。ここからは対岸の奥鐘山の岸壁を見ながら進み、鉄塔の下辺りから急な下り坂となると欅平駅は近い。トロッコ列車で宇奈月温泉に向かい、そこからは富山地方鉄道の旅、下界である。

緊張しつつ楽しめる、山のいで湯旅だった。                           (写真は十字峡)

水曜日, 5月 24, 0018

山行回想2-雲ノ平~槍・穂-

今までの山人生で死ぬかと思ったことが3回ほどある。その最大のモノを今まで親兄弟にも内緒にしてきたが、今日、その顛末を記す。

私の拙い山行歴の中で、本当の縦走といえるのが2回だけある。
その一回目は折立→薬師沢→雲ノ平→高天原→(水晶)→鷲羽→三俣蓮華→双六→槍→大キレット→北穂→涸沢→奥穂→涸沢→上高地という六泊七日のロングコース。涸沢に降りなければならなかった理由は、当時、ヒュッテで働いていた弟に会うためであった。
夜行寝台で富山に行き、早朝、折立から登り始めると、昼には太郎平小屋に着いてしまった。体力に余力があったので、一気に薬師沢に降りて一泊した。翌日はガスっていたが、雲ノ平に登り、そこから初めて黒岳(水晶岳)を見た。高天原の温泉に浸かりたくなって、高天原山荘で一泊。露天風呂で至福の時を過ごした。3日目は、岩苔乗越にデポって昨日気になっていた黒岳(水晶岳)へ。山頂で微睡むのは山人の楽しみの最大のモノである。その後、急激にガスって来たため、尾根歩きを止め、黒部源流へと下り、そこから三俣山荘へ上がり直そうと考えた、これがいけなかった。
登山道を見失い、焦れば焦るほど分からない。沢をどんどん降りていくとそこは上ノ廊下とよばれるプロの世界だ。これはヤバイと判断した私は登山道ではない沢筋を登ることにしたのだ。そこからの2時間余りの奮闘は、自分でも何をしたのかほとんど覚えていない。落石が運良く逸れたことと、這い松の上は歩きにくいという事ぐらいか。やっと登山道に出たのは、ワリモ岳あたりであった。私はそこで死んだように休んだ。道を普通に歩く登山者には奇異に感じられたことだろう。
そうこうすると何のことはないガスが切れて、自分が悪戦苦闘した下の沢筋や雲ノ平が見えてきた。立ち直って歩き出し、鷲羽岳まで行くと晴れ渡ってくるではないか。なんだ、焦らずに休めば良かったんだ、一休みするということを学んだ。と同時に、山の天気の恐さを痛感した。そして、このことは人に話すまい、と決めた。私の馬鹿な行動がみなさんのお役にたてれば思い、今日、禁を解く。あの時の、鷲羽池越しの槍ヶ岳は目に焼き付いて離れない。ホントにきれいだった。池まで降りようか、とも思ったのだが、もう私に体力は残っておらず三俣山荘に宿を取って死ぬほど寝た。
この日からは厄落としが済んだかのように、晴天が続き、西鎌尾根を通って槍ヶ岳山荘へ。翌日は(本来)最大の難関である大キレット越えなのだが、これも天候に恵まれ、難なくクリア。なんと初めて訪れる涸沢カールは北穂から入ったのだった。上から眺める涸沢はナベの底のように感じた。弟の働いていた涸沢ヒュッテは、いつも通りごく普通に、混んでいた。以後、何回か訪れることになる涸沢だが、単独行であってもつねに幕営となったのはこの時の経験からである。翌日は空身で奥穂高岳をピストンして、帰路、横尾か徳沢で一泊したのだが、写真が無いのでハッキリしない。
当時、私は風景を自分の目に焼き付けるので写真は撮らない、などと豪語していたのであるが、齢を重ねてこのような長い山行が不可能になると写真を撮っておけば良かったと反省することしきりである。ちなみにこの翌年の山行では、写真を撮りまくっているので、今回アップしているのも2回目の縦走時のものである。


忘れえぬ山々、その恐さ、そして何よりも美しさ、これらすべてを経験したのがこの山行であった。

                               (写真は双六岳から見た槍ヶ岳)

火曜日, 5月 23, 0018

山行回想1-白馬三山-


北アルプスが私のお気に入りの山域なのは、山小屋が多くて単独行に適しているからだ。だが、初の北アルプスは、弟と二人で幕営による白馬三山縦走であった。弟は私の山の師匠だが、現在は止めてしまっている。前日から台風の接近に伴う雨が白馬尻のキャンプ場を襲ったが、1泊停滞するだけで登ることが出来た。初めての雪渓登りに超緊張の2時間だったが、何とか葱平に着いた時はホッとした。頂上直下のテント場で幕営。白馬岳山頂から日本海を見た。山から海が見えるとは思ってもみなかったので、よく覚えている。台風一過の晴天には恵まれたが、風はおそろしく強く、キチンと留めていなかったグループのテントが凧のように、晴天の青空に飛んでいった。テントって、飛ぶんだぁ、と知った。翌日、鑓温泉経由で猿倉に降りたのだが、温泉に浸かったためかなりバテた。しかも地図上の時間が間違って記載されていて、こんなことなら温泉に一泊すればよかった、と反省した。
この後、昨年までにこの山域は3回挑戦しているのだが、いつも一日は雨に見舞われている。特に昨年の不帰の嶮越えは、最終日に大雨に見舞われ、反対側の雪渓では土砂崩れが起こった。山の天気は本当に変わりやすく、しかも大幅に変わるので心底恐ろしい。

けど、また行ってみたい。          (写真は昨年、白馬鑓ヶ岳あたりで撮ったこまくさ)

火曜日, 5月 16, 0018

【名曲名盤】シフリン『モーツァルト:クラリネット協奏曲・五重奏曲


天才にもいろいろなタイプがいるが、モーツァルトはあまりに多作タイプなので絞るのが難しい(ダ・ヴィンチみたいな寡作の天才もいる)。今年はモーツァルト生誕250周年なので、さらにCDも増えることだろう。このコラムはどうせ素人の感想文なので、やはり好きな曲・好きな演奏を扱うのが一番を良いと思い、今回はクラリネットのデヴィッド・シフリンを採ることにした。

協奏曲の方はK.622で、モーツァルトの最晩年に作曲されたものの一つ。第2楽章を絶賛する方が多いが、小生のようなド素人には第1楽章の方が入りやすい。出だしからモーツァルト・ワールドが広がり、楽しい気分にさせてくれる。元来、私にとって協奏曲はオケとソリストが戦う感じ=バトルものが最高に好みである。チョン・キョン・ファン然り、アルゲリッチ然り、デュ=プレ然りである。ところが、このシフリン盤は逆で、オケと融合・共生していく。今回、聞き直して初めて気が付いた。つまり、モーツァルトの曲そのものが対立・戦いというものと相容れないのであろう。
五重奏曲の方は、室内楽にあまり通じていない私でもこれは嵌るかも、と予感させてくれる内容だ。こちらも私は第1楽章がお気に入りで、何度聞いても飽きさせない。この曲も死の2年前という厳しい状況下で作られているのに、憂いを帯びながらもモーツァルト・ワールド全開の楽しさ・喜び・幸福感に満ちてあふれている。

天才の一つの天才性は時代を超えた息の長い作品の生命そのものにあるのだろう、と思った。


David Shifrin, Gerard Schwarz, Mostly Mozart Orchestra『Mozart: Clarinet Concerto, Quintet』  Delos 1984注)

月曜日, 5月 15, 0018

【名曲名盤】ケニー・ドリュー『ダーク・ビューティー』


京都で学生生活をして良かったと思うのは、ジャズ喫茶にたくさん通えたことだ。東京にもあったのだが、ジャズ喫茶に行ったことはなかった。それは町の大きさが影響しているように思う。京都の街は狭いので、フリーならこことか、明るい店内で読書するならあそことか、狭い店ならそことか、選びやすかった。そんなお店で触れたのが、今日の一枚。『ダーク・ビューティー』だった。

後にオシャレなジャケの、売れ線のCDで有名になったケニー・ドリューであるが、当時は渋いジャケのレコード(死語)が多かった。普通なら、リバーサイド盤の『ケニー・ドリュー・トリオ』を採るべきだろう。が、なぜか北欧時代の彼の作品が好きであった。自分でも理由はハッキリしなかった。最近、ジャズを演っている友人に教えてもらったのだが、このアルバムのドラムはロック向きにチューニングされているそうで、演奏全体が私のロック魂を刺激しやすかったのだろう。ドライブ感溢れるパフォーマンスはロックおやじの私をぐいぐいとジャズへと向けてくれた。曲についてスタンダードの方が馴染みやすかったのは、心底ジャズマニアでない証拠かも知れない。さて、この作品を自分のモノとして手に入れたのはCDになってからであるが、手持ちのSteepleChase盤にはなぜか「In Your Own Sweet Way」「A Stranger In Paradise」の2曲が、『ダーク・ビューティー2』からおまけの如く入っている。私にとって、お気に入りとなったこの作品は、ロックのように掟破りの攻撃性を発揮し、ますます「黒光り」している。
今はもう昔の物語り。京都もほとんどジャズ喫茶は無くなってしまったそうだ。

KENNY DREW Trio 『DARK BEAUTY』  1974  SteepleChase

木曜日, 5月 11, 0018

【名曲名盤】グールド『バッハ:ゴールドベルク変奏曲』


クラシックって、取っつきにくい。昔、学校での音楽教育はクラシック一辺倒であったから、私はいやでいやで仕方がなかった。お仕着せ、強制、無理強い、そんな言葉とクラシックは等号で結ぶことが出来た。音感の悪い小生は楽器演奏も覚束なかったのである。

ムソルグスキー『展覧会の絵』についで、友人から薦められて聴いたのが、このグレン・グールドの『バッハ:ゴールドベルク変奏曲』1955年版であった。
ビックリした。何とクラシックのピアニストがスイングしながら、あろう事か、ハミングまでしているのである。私のそれまでのクラシック観を根底から地響きをたてて崩し、全否定するにあまりある作品だった。バッハの曲をチェンバロではなく、ピアノで演奏していることだけも違和感があるのに、この曲のもつリリシズムを全面に現出したかのような表現力は何ものか。その名演に聞き惚れてしまって、結論が未だに出せない。時、場所、人を得てこの曲は開花したのだ。彼、グレン・グールドと出会わなければ、この曲が今日これだけ注目されることは無かったのではないか、と思う。
後に1981年デジタル録音版を聴いた。もちろん、この演奏も素晴らしく老成した観のあるグールドの表現だ。たぶん1955年にこの演奏で録音していたら、もっと衝撃は大きかったとは思う。しかし、残念ながら最初の第一波の衝撃波に比べると1981年版の第二波はやはり弱いと思う。

この作品以後、私は、クラシックは演奏によって全く異なるし、メチャメチャ格好いい作品があるのだと知った。ここから、この一枚から、私のクラシック人生が始まった。

Glenn Gould,Piano 『J.S.Bach:GOLDBERG VARIATIONS』 BWV988  SONY CLASSICAL 1955年録音

水曜日, 5月 10, 0018

【名曲名盤】RCサクセション『カバーズ』


このアルバムはロックを中心とした名曲に、忌野清志郎が「反戦・反核」の意訳の詞をつけた、まさにカバー曲集というコンセンプトであった。常々、小生は日本のアーティストには政治的意見や哲学と呼べるモノが薄く、欧米のアーティストと比べて社会性の欠如を憂いていた。アメリカのWe are the Worldやイギリスのマンデラ・コンサートにみる発言力やパワーは欧米音楽家の主流であり、その軸のブレ無さは「クール」の一言に尽きる。
そんな中、紆余曲折の末、発売されたのがこの『カバーズ』である。 1曲目の「明日なき世界」はとてもパンチの効いた歌詞で歌い上げ、最も気に入られたナンバーとなった。フォークアーティストの高石友也氏も訳詞に参加している。5曲目の「ラブ・ミー・テンダー」の「何言ってぇんだぁ~」という韻を踏んだ歌詞には感服した、流石、キヨシロー。私の個人的な最大のお気に入りは7曲目の「サマータイム・ブルース」である。 子供バンドもカバーしていたが、THE WHOのライブナンバーとして知られるこの曲を、全く異なる反原発・反核の歌詞に変えたのである。その上、三浦友和や泉谷しげるの絡みが巧く、高い効果を発揮している。最後にJOHNの「イマジン 」で閉めるあたりも巧いなぁ。
「素晴らしすぎて発売できません」ではなく、「素晴らしすぎて後が続きません」という感じである。その後、忌野清志郎がタイマーズHISなど活動を拡大していくきっかけのアルバムとしても感慨深い。

♪♪でもよォー 何度でも何度でも おいらに言ってくれよぉ
   世界が破滅するなんて嘘だろ(うっ・そ・だろ~ぉ!)    「明日なき世界」


RC SUCCESSION  『COVERS』 キティレコード 1988

火曜日, 5月 09, 0018

【名曲名盤】ローランド・カーク『溢れ出る涙』


その天才は何本もの管楽器を口にして、演奏していた。ロックなどの演奏家たちに囲まれて、例のサングラスに帽子、濃いひげを蓄えている。
ビデオ『supershow』で初めて見た彼、ローランド・カークの勇姿だった。ジャック・ブルースやバディ・ガイらとブルースをテーマに共演していた訳だが、まさにフュージョン。見た目の奇怪さとは異なり、そのテーマに関する音へのこだわりはなみなみならぬモノを感じた。
JAZZが好きとはいっても、実はピアノトリオを聴く程度だった小生にとって、サックスなど管楽器はとても違和感があり、好きになれずにいた。マイルスやコルトレーンなど少しずつ触れていくことによって、その帷も破られてはいったが。しかし、それでも彼の見た目の異様さは、慣れ親しむにはハードルが高く、まさに異形のモノという感じがして、CDを聴く気にはなれないでいた。そんな時に出会った名盤が、この『溢れ出る涙』である。鼻で吹いたり、3本同時に演奏したり、演奏しながら歌ったり。いくらジャズでも考えられないこれらのパフォーマンスとは異なり、このアルバムの彼はリリシズムに溢れ、時にメロディアスで、時にパワフルで、彼自身の描きたかった音が詰まっている。音で実像を描き出そうとするかのごとき姿は、鬼気迫るモノを感じる。特に1曲目のThe Black and Crazy Bluesや6曲目のThe Creole Love Callなどは彼の個性が光っている。溢れ出る「涙」は異形のモノとしての彼の音楽性に他ならない。

ローランド・カークはジャズそのものであり、黒人音楽そのものだ。
This man is what jazz is all about. He's REAL.(by Charles Mingus)

Roland Kirk  『The Inflated Tear』 (1967)  Atlantic

月曜日, 5月 08, 0018

【名曲名盤】オリ・ムストネン『展覧会の絵』


ロック好きだった高校時代、エマーソン、レイク&パーマーのライブ『展覧会の絵』を聴いた時は、この原曲がクラシックの名曲でロシアの作曲家ムソルグスキーの作品であるということぐらいしか分からなかった。

後年、クラシックを聴くようになって、この曲はモーリス・ラヴェルが管弦楽曲に編曲したバージョンが有名で、もとはピアノ曲であるということを知った。ピアノの組曲としてのお気に入りになったのは、ホロヴィッツのRCA盤で、1951年のライブという音的に厳しいモノだった。その後、この曲に対する思い入れから多くのアーティストの演奏を聴いたが、これというモノに巡り会えなかった。
そんな中、出会ったのがフィンランド出身のエキサイティングなピアニスト、オリ・ムストネンであった。彼は、ムソルグスキーが友人で画家のヴィクトル・ハルトマンの(追悼)展覧会で感じた、その作品群(絵)のイメージに忠実な演奏を心がけたのだ。それは4枚目の「ブイドウォ(=牛)」をモチーフにした演奏部分に典型的に表現されている。上記の有名ピアニスト達が、軽いテンポで弾いていた部分を、重く暗い演奏に変えている点にムストネンのムソルグスキー理解の深さも現れている。

オリ・ムストネンによって、我々はラヴェルの呪縛から解放されたのだった。


Olli Mustonen 『Russian Piano Works 』 Mussorgsky(Composer), et al Decca 1992

土曜日, 5月 06, 0018

【名曲名盤】キャプテン・ビヨンド『キャプテン・ビヨンド』


知る人ぞ知るハードロックの名盤。1曲目の頭から脳天直撃なサウンドの連打に驚愕することになる。しかも一曲一曲のクオリティの高さもさることながら、アルバム全体を構成している宇宙を素材とする緊張感と組織力は、コンセプトアルバムとしての質の高さの証明でもある。

それもそのはず、メンバーは元Deep Purple(第1期)のROD EVANS(Lead Vocals)、ジョニー・ウインター・アンドのBOBBY CALDWELL(Drams)、アイアン・バタフライのRARRY RHINO RAINHARDT(Guitar)とLEE DORMAN(Bass)という、いわゆるスーパーグループだったから、その音楽性の高さは当然であるかもしれない。ただし、Deep Purpleといっても第1期はアートロックに含まれ、現在のイメージするDeep Purpleとは全く異なる訳で、そのキャリアに反してこのメンバーで作り出そうとしたサウンドはまさにハードロック。Deep Purpleというよりもむしろレッド・ツェッペリンのように音の万華鏡的な広がりを持っている。
12曲目の「静寂の対話(返答)」に代表的にみられるシナトラのような甘いボーカル、アルバム全体を通じて変幻自在なリズムを刻むドラム。リズム隊に負けないギターサウンド。本作は日本では評価が高かったが、アメリカでは売れなかったそうだ。クィーンの1枚目と同じ共通性を感じる。時代、会社などのマネージメント、方向性、「売れる」という現象のもつ難しさを思い知らせる出来事だ。

CAPTAIN BEYOND『CAPTAIN BEYOND』  1972  Capricorn(日本盤PORYDOR K.K.)

金曜日, 5月 05, 0018

【名曲名盤】カウント・ベイシー-Jumpin’ At The Woodside-


サッチ&ジョシュ』。初めて買ったジャズのレコードが、ジャズ界の巨人二人のコラボで、二人のバトルというよりも余裕のある競演は、私をジャズの道に引きずり込んだ一枚でもある。二人のやり取りはまさに野球のキャッチボール。これ以後、ピアノトリオを中心にジャズを聞くことになっていった。このアルバム中の「Jumpin' At The Woodside」のドライブ感は、ロック少年だった私にはとても入りやすかった。しかし、情けないことに、当時はテーマやアドリブという言葉も分からずに聞いていたのであった。後にこれはカウント・ベイシーの晩年の作品で、彼はピアニストというよりもビッグバンド界を代表するバンドリーダーとして有名なのだと知った。

一昨年だったか、矢口史靖監督の『スウィングガールズ』を見て、久しぶりに聴きたくなったのだが、悲しいかな、CDは持っておらずレコードプレーヤーは針がダメときているので聴くことが出来ない。私にとって、レコード時代に買った数少ないジャズのアルバムなのであった(当時はジャズ喫茶で聴くのが精一杯であった)。

Count Basie with Oscar Peterson『Satch And Josh』1974.12 Pablo

【名曲名盤】モダンチョキチョキズ『ローリング・ドドイツ』


濱田マリが、歌手であることを記憶している方はそんなに多くないかも知れない。以前、帰りが遅くて見るテレビと言ったら、深夜放送という時代に濱田マリ嬢がボーイズ(音楽漫談)の歴史を具体的に紹介していた。そこで、私のお気に入りである宮川左近ショー注)を熱く語っていたのが、彼女との初めての出会いでありました。(たぶん「おかずな夜」という番組だったらしい)。

その番組で流れていた曲が「新・おばけのQ太郎」で、早速アルバム『ローリング・ドドイツ』を買いに行ったのが、私のモダチョキ人生の始まりです。このデビューアルバムは浜口庫之助氏の「恋の山手線」をツイスト調に、ユーミンの「甘い予感」を中国風に、アレンジして聞かせるとてもカラフルで、めっちゃ関西テイストなお笑い感性爆発なサウンドは、私のツボ直撃でした。「新・おばけのQ太郎」もご存じの曲をファンクなロックに仕上げていて、当時としては斬新だったと思います。まさにリーダー矢倉邦晃のいう『音の百貨店』状態、コテコテのたこ焼き臭のするサウンドでした。その後、バンドはメジャーになるにつれ、音の厚みも出ては来たのですが、このデビューアルバム以上のインパクトは無かったというのは音楽の常とは申せ、悲しいことでございます。

フィリップ君の西城秀樹ネタ 「ヒデキ、還暦~ぃ」 はもうすぐ洒落にならないです。

注)リーダー・浪曲師の宮川左近、ギターの松島一夫、三味線の暁照夫のトリオ漫談で、中でも暁照夫の三味線はバツグンで「三味線界のジミヘン」の異名を取る。

モダンチョキチョキズ『ローリング・ドドイツ』1992.7

水曜日, 5月 03, 0018

【名曲名盤】マーラーの交響曲第5番-アダージェット

JEFF BECKがマーラーのアダージェットを演奏しているのがmixiに紹介されていた。オケをバックにギターを弾いているのだが、ベックらしくない。大昔に演っていたgreensleevesに近い感じだが、曲の影響からかまさに仏教で言う涅槃の境地に近い。何か思うところでもあるのであろうか。
そこで私も涅槃に旅立つために、久しぶりにマーラーの交響曲第5番を指揮者バーンスタイン,ウィーンフィルの演奏で聴く。やはり第4楽章のアダージェットはバツグンだ。甘く、切ない心の振動を伝えてくる。このタイプの曲はマーラーの専売特許だが、バーンスタインの指揮はまさに適役。目をつぶって聴いていると、ヴィスコンティの名作『ベニスに死す』の海岸シーンが浮かんでくる。残念ながら、凡人の儂は必ず、このあたりで睡魔に襲われ、涅槃ならぬ爆睡の境地に至る。悲しい結末ではある。

Leonard Bernstein Vienna Philharmonic Orchestra『Gustav Mahler Symphony No. 5』  Deutsche Grammophon