いつも心に音楽と、山と

さすらいの教師takebowの趣味の部屋

土曜日, 8月 19, 0018

山行回想9-常念岳-


「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


松本平から梓川に沿って広がる盆地は北アルプスと平行してフォッサマグナと呼ばれる地溝帯を形成している。その中にあって一際、目立つ形でキリリとそびえ立つのが常念岳である。名前の由来は春先に残る雪型が常念坊という僧侶の形に似ていることから来ている。隣の蝶ヶ岳が二重稜線のノッペリとした捕らえどころのない、景観であるのに対して常念のそれは「ここにいるぞぉ~」と叫んでいるかのような自己主張が感じられる。

初 めて登ったのは、確か10月の連休だったと思う。友人の結婚式に参列してから大阪発の夜行寝台で松本に向かった。当時は何と月イチ登山をめざし、今では 考えられないが、かなりのハイペースで登っていた。だから、こんな無茶をしたのだろう。大糸線の穂高の駅でタクシーを拾うと、山小屋に 新聞を届けてくれとのこと。そうか、こうして人伝で届けられるんだなぁと感心した。前日に雪が降ったらしく、登り始めには山頂部が白っぽく見えたが、天気 が良くて歩いている最中に雪は完全に溶けてしまった。2662mの避難小屋あとまでは快調に来たが、前日の酒や疲れが出たのかバテ始めたので、そこからは 常念乗越へのトラバースする道を使った。現在、この道は使えないので要注意である。2年前に再訪した時は頂上を経由しないと行けないようになっていた。小 屋で頼まれていた新聞を渡すと凄く喜ばれ、コーヒーをごちそうになった。そんな交々のことを安曇野を走りながら常念岳が見えるたびに思い出すのである。

「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」という啄木の歌を思い出す。私にとって故郷でもないのに、常念岳はありがたい存在である。 (写真は槍の稜線から見た雲海の常念岳)

木曜日, 8月 17, 0018

山行回想8-不帰ノ嶮-

「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


北 アルプスには、キレットと呼ばれる場所が3箇所ある。一番有名なのが槍~穂高間にある大キレットで、次に鹿島槍~五竜の八峰キレット、そして唐松岳~天 狗ノ頭の間にあるのが不帰ノ嶮である。キレットは「切戸」とも書き、ナイフエッジを思わさせる急峻な岩の稜線を指す。どこも「鳥も通わぬ」とか「人を寄せ 付けない」という形容詞とともに語られている難所である。

2005年、八方尾根から登り、唐松山荘に一泊。翌日、快晴の中、懸案の不帰ノ嶮を めざした。3度目の正直。今まで2度に渡って越えるのを断念してきた場所だ。天候が不順であったり、体力的に保たずに諦めてきた。だが、今回は難所に関し ては恵まれた山行となった。天気の安定は、剱岳を代表とする立山などの山々を見ながらの快適な登攀を可能にしてくれた。かなり早いペースで核心部分のⅡ峰 ~Ⅰ峰をクリアできた。子供の頃から危険な処を登るのが好きだったためか、難所になると余計にやる気が出てくる。デジカメの写真を見ると、岩ギキョウなど の花を愛でる余裕もあったのだから、いかに快適な山行だったか、ご理解頂けると思う。「天狗の大下り」を逆コースから大登りして天狗岳山荘に着いた。

その後が長かった。白馬鑓温泉ま でがモチベーションが下がったためか、何度休んでもペースが掴めないので大出原で昼寝した。他の登山者が横を通るのに無様にも大の字になっていた。山用語 で「トカゲ」という状態。おかげでパワーが戻り、白馬鑓で快適な温泉を満喫した。が、翌日は朝から最悪の雷雨となり、命からがら猿倉まで下ったのだった。 翌日、下界のニュースで大雪渓の落石で人が亡くなったことを知った。


困難がある。だからこそ登るとしたら、登山とは人生そのものなのか。      (写真は不帰ノ嶮Ⅱ峰南峰)

土曜日, 8月 12, 0018

山行回想7-笠ヶ岳-

「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


笠と言えば、虚無僧の被る編笠などを思い浮かべるが、昔の人は女性の被る市女(いちめ)笠をイメージしたようだ。今回取り上げる笠ヶ岳は実にその形を忠実に現出している。遠く薬師岳からも、そして雲ノ平からも、もちろん槍・穂高からも同じように絵に描いたような笠の形が見て取れる。

そ の山に登ったのは2度目の大縦走で、そのトリとなるピークが笠ヶ岳であった。ルートは、また折立→太郎平→薬師岳→雲ノ平→高天原→雲ノ平→三俣蓮華→ 黒部五郎(カールのみ)→双六→笠ヶ岳→新穂高温泉というモノ。天候に恵まれ、順調に山旅が進み、最後のピークとして笠ヶ岳をめざした。裏銀座と呼ばれる 双六までは大勢いた登山客も秩父平を越える頃にはほとんど見かけなくなり、以前、登山道に熊が出没したというニュースを思い出させるに充分な静けさの縦走 路であった。小屋に荷物を置いて、早速山頂に行ってみると、幾多のケルンがあり、綺麗に水平の石が積み上げられていた。休みながら槍~穂高を眺めている と、一転俄に曇ってきて、立ち上がるとそこには人影が後光を放ちながら現れたのであった。

ブロッケン現象はそれまでも何度か体験していたのであるが、やはり信仰の山で経験すると厳かな気持ちになるモノである。まさに光背を浴びて阿弥陀仏が降臨したかのような錯角を受けたのもむべなるかな、である。山頂でまったりとした時を過ごしたのは言うまでもない。

それと、この山にもし向かわれるのなら、絶対に笠が岳山荘に 泊まることをお薦めする。小生の経験では北アルプス随一のもてなしの山の宿だからである。朝から朴葉みそを食し、夕食にはデザートといってスイカをごちそ うになり、空いているからいって一人一部屋のような恵まれた睡眠環境を楽しませて頂いた。商売抜き、そんな感じで幸せにさせてもらった。再訪したい山小屋 ナンバー1が笠が岳山荘である。

一期一会。笠ヶ岳には信仰の山だからこその、人のぬくもりがある。                 (写真は三俣蓮華山頂から見た笠ヶ岳)

金曜日, 8月 11, 0018

山行回想6-槍ヶ岳-


「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)


そ の山に初めてお目にかかったのはいつだったか、定かではない。たぶんイヤと言うほど写真を見ているので、どれが実体験か分からなくなっているのであろ う。初めて八ヶ岳に登った時に遠く北アルプスを眺め、弟のカメラの望遠レンズで見たのが肉眼で見た初めてだったような気がする。

初めてに登ったのはまだ弟と共に山行していた時期で、確か小屋がけで登ろうということになり、→ 大天井岳→(喜作新道)→西岳→槍ヶ岳→槍沢→上高地というルート、表銀座とよばれる北アルプスの王道である。時期は8月の終わりで、学校が始業する直前 だった。下界は残暑だとか熱帯夜だとか言っている季節だったが、山上はもう秋の佇まい。草紅葉などが始まっていた。時期的に大糸線の穂高駅でバスに乗ろう としたが、もう運行されていない頃だった。それほど夏山シーズンを外れていたということか。

合戦尾根の登山口は有名な中房温泉で あるが、我々が行ったら、オヤジが 「登山客以外は泊めるな、観光客には帰ってもらえ」と叫んでいた。このご時世に、登山客優先とはビックリした(現在は違うかも)。出発が遅かったが、短い 行程なので何とか着いて当時としては珍しかった生ビールを飲んだり、燕岳に散策に行ったりして過ごした。翌日、前半は快調に喜作新道を進んだ。この道の凄 いところは槍ヶ岳がスケールごと大きく見えてくる処だろう。元来、あれだけ目立つ山である。誰が見ても分かるあのピラミッド型が歩くたびに近づいて来るの だから、山をやるモノには堪らない。水俣乗越を越えた辺りから二人のペースがダウンし始めて、なかなか距離を稼げずに肩の小屋ま で着かず、結局、ヒュッテ大槍に泊まることとなった。情けない話だが、無理は出来ない。一晩休むと体力も回復し快晴の中、槍の穂先に向かう。穂先の最後の 部分は登りルートと下りルートと分かれていて、渋滞を避けようとしているのだが、普通はいつも渋滞している。頂上は思ったより広く、祠が祀られ元々信仰の 山から出発したこと注2)を思い起こさせる。360°の展望。北アルプスの中心からコンパスを広げて好きな図形が書けそうである。空気が一瞬、止まったよ うに感じた。ずいぶん穂先でぼんやりしていたような気がする。あまり長居は出来ないはずなので、時間的には何分、何十分の範囲だろうに。

帰 路、例によってまたバテて横尾か徳沢で一泊しているはずだが、どうも思い出せない。この頃は交通機関をバス・電車に頼っていたので、自由がきかず、温泉 にも入れずに汚いまま新宿に向かったのだけは覚えている。これ以後、全部で3回ほど登る機会に恵まれたが、穂高と違いルートは全て異なる。槍が北アルプス のcrossroadなので、さもありなん。出来ることなら今度は飛騨側から登ってみたいモノである。

よく遠くの頂を見て「あれは何てい う山だ」と考える。岳人共通のあこがれの中心が槍ヶ岳だ。ところが、その中心=槍からはさらに中心(槍)が見える範囲の 山をすべて登ってみたい、と感じたのだった。中心にいるということはそういうことのようだ。                                                       (写真は大喰岳辺りからみた槍ヶ岳)